ごごなんにっき

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穏やかに生きると言う事◎

この間久しぶりの友人と長話をしました。

友人というものには悲しいかなジャンルが分かれていて、馬鹿言い合うだけの友達もいれば、真面目な話しかしない友人というのもいます。それは決して悪い事ではなくて、お互いの心の安定を図るためにそこがベストだと思うのならそれでいいと思うのですよね。真面目な話をするからそちらの方が大切だというわけでもありませんし。

今回は「馬鹿な話もするけど真面目な話を私が素直に聞き届けられる事が出来る友人」と話をしました。私、意固地なんですよね。自分の意見というものが前に前に出ちゃって、何度も情けないなぁと思うんですけどそれでも悔しくて自分の意見を通しちゃうんです。他人の意見はしっかり聞き届けて吸収しなくちゃいけないのは百も承知なのですが、誰彼に出来るわけもないと思うのも事実です。(自分より情報量の少ない友人の意見は聞いても知っている事と通過した事ばかりの場合もあるからです。)

友人は非常に情報量が多い方で、聞いててもすんなり聞き届けられるのが嬉しい所。否定されると辛い人には苦手なタイプなのかもしれませんからね。(すぐに「それは違うと思うんだけどねぇ」とか言っちゃうけどちゃんと理由を付けて言ってくれるから私は傷ついたり辛くなったりはしません。)

話した内容は色々な事がありました。共通の友人の話やその友人達の周りの話。自分達の話や、考え方の話。ありすぎてわかりませんがとにかく沢山話しました。

話しながらやっぱり私は少し薄情な所があるのかなぁとも思ったりしていました。核心めいたものはあるのですが、私はそれを薄情と捉えるか、否かをいつも迷ってしまいます。

 

私は友人が大切です。恋人が大切です。家族も大切です。

だからといって彼らが正義だと思った事はほぼありません。

友人も恋人も家族もそれぞれ個で、オリジナルの塊でそれが情によって正義に変わる事などありえないからです。

なので、誰かが何かを話していて色んな事があっても私の中のジャッジがきちんとあって誰の味方につく事はありません。"助ける"という事はありますが、それは"助けるのが正しい"と思った時や"助けたい"と思った時だからです。決して"友人だから恋人だから家族だから"とは思えないのです。多分これを揺るがす事は一生無いんだろうなぁと思います。揺るがした時点で天秤が崩れて何を大切にしたらいいかわからなくなると強く思います。

母親がよくテレビのニュースを見ていて言います。罪を作った子供(未成年でなくとも)が誰かを殺めてしまったりしたそれを見た時は「私なら首根っこ掴んで警察に連れて行く。どうしても償えないのなら子供を殺して私も死ぬ。そういう風に育てたのは親である私の責任だから。」と言います。私は小さな頃からそれに賛同していました。「何故守ってくれないの?」と思った事は一度もありません。そこから私の中ではきっと平等はあったのだと思います。

平等が薄情なのか薄情でないのかは未だに私の中でわかりかねる問題ですが、きっと私の心の中ではそうすべきなのだと感じてはいます。

 

色んな話を友人としてから家に帰ってゆっくり考えた結果はやはり穏やかに生きねばならないなと言う事でした。昔は私も嫌いな人なんて居なかったのに、最近になって心に陰りが見えたのと、自分自身を大切にしようとした結果育ってしまったのが"我"でした。いい方向に成長すればよかったのですが、綺麗で美味しいものだけを食べて生きていける程世の中は優しくありませんからね。そして甘やかす方向性が強かったです。今まで自分を押し殺して人のため、なんてキレイ事を並べた生き方を地味にしてきてしまったせいなのかもしれません。"甘えてもいいんだよ"なんていう周りの言葉を鵜呑みにして、叱咤もせずにブクブクと心は肥り続けていきました。

人の悪口を言い、嫌いな人を嫌い、憎しみの言葉を吐き、私にだっていう権利はあるんだなんて思いながら本当に馬鹿な生活をここ何年か少しづつ積み重ねてた気がします。笑いながら人の揚げ足を取ったり。思い出すだけで恥ずかしい事ばかりです。

自分の好きな言葉だけを綴るのは本当に簡単です。楽しい事、嬉しい事、上辺だけの友達付き合い、自分たちの嫌な所は見ないで人の悪口ばかり。他人から言われる言葉はスルーするか反撃。影でグチグチ。悪口は蜜の味なんて本当なんですね。心がパンパンに膨れて肥ってしまって動けなくなってしまいました。膨れ上がった心は顔に出ます。顔相というものは案外如実に浮き上がってくるものです。ふと鏡を見た時に本当に悲しくなって「あ、やっぱりダメだ」と強く思ったのが最近です。本当に対象の事をよく知りもせず、こちらが悪の可能性も見出そうともせずに汚い言葉をよく吐いたものです。"言ってスッキリする"から"言うとムカムカする"に心がガッツリシフトチェンジしてしまったのがその瞬間でした。

相手にしたことは自分にも返ってくるのです。何らかの形で。

自分がしたことを相手がしていても決して責められる訳はないのです。

 

なので自分の中でそういう感情が今ふと湧き上がっても悲しくて泣いてしまいます。情けなくて、自分がちっぽけなんだなと思ったり、相手に悪いなと思ったり、こっちでいくらカサ増しして毛布を巻きつけて殴り続けるんだろう、というイメージが頭を駆け巡って心のなかで毛布を剥いできちんと見つめる事にしています。

 

嫌いな人間が居るのなんて当たり前なんです。悪口も嫌味も陰口も正直"絶対必要な悪"なんですよ。自分の心の安定は自分で創りあげなければいけませんから。だけど、それを肥大化させすぎると本当に心が動けなくなってしまう。詰まってしまって何も聞けなくなってしまう。美味しい所だけ啄んでいつかきっと破裂してしまうんではないかと思います。そしてその破片をひらってくれる人なんて居やしないんだと。

 

私はもっと色んなものと真摯に向き合うべきだと思うんです。物事も人間関係も。そしてもっと視野を、最近特に狭まっていた視野を広げる必要性があるのだと思います。

本当に抽象的でざっくりとした考えで綴ってしまいましたが、私の中ではきちんと固まってものなので見なおした時は戒めだと捉える事にします。

 

成長は自分でしようとしなければ出来ないのだ。もう私達は衰えていく一方でしかないのだから。